まず先に言っておきますと、私自身、ホラー小説・ホラー映画と呼ばれるジャンルはあまり好みません。
「怖いから」とかそういう理由ではなく、「怪異」そのものを根本的に信じていないから。
とはいえ世間一般の日本人と同様、法事とかはきちんと参加しますし、墓に手を合わせる時も適当にやっているわけではありません。
つまり、「亡くなった方が見守ってくれている」という考え方を否定するわけではなく、現実に即して「そういったことは(科学的に)おそらくあり得ないだろう」という合理的な判断をしているだけです。
ただ、そういう世界や現象が「あったらいいな」とはどこかで思っています。
本州に暮らしていた時は、そういったことの延長で歴史学・民俗学に興味を持ち、寺社仏閣を巡ったり地名の起源を調べたりしていました。本来の学問とは全く別のジャンルだったので、今の仕事には一切結びついてはいませんが(笑)
ですから、今回読んだ「残穢(ざんえ)」も本来であれば絶対手に取らない部類の小説ではあったのですが、5ちゃんのホラー系まとめサイトの「怖い話」スレで本書の名前が上がっていて、好きな作家の配偶者(著者の小野不由美氏はミステリ作家の綾辻行人氏の妻)であったこともあり、たまたま購入してみたのでした。
概説
本書「残穢」は、ライターである<私>の視点で物語が進行します。
全編通して<私>の名前が出てくることはありませんが、ある程度読み進めていくと著者である小野不由美氏のことであるとわかります(とはいえ、フィクションなので実体験なのか、創作なのかを判断することはできません)。
<私>は若い頃に書いた小説のあとがきで、読者に「怖い話」があったら送ってほしいと問いかけ、色々な怪談を蒐集していました。その後、改訂でその記述が無くなってからも古書などで昔の版を手に入れた人から同様の手紙が届き続けます。
その中の一つ、「マンションの部屋から物音がする」という何気ない手紙を送った久保という女性と<私>が物音の原因を過去に遡って調査していく、というドキュメンタリー形式の小説です。
詳しいあらすじはWikipediaにありますのでそちらを読んでいただければと思います。
書評
まず、「残穢」が一般的なホラー小説と一線を画している点として、主人公である<私>が直接的に怪異による恐怖体験をすることはありません。
また、文中での時間軸は久保から手紙を受け取った時点から数年後まで調査の課程で流れていきますが、実際の主軸は「怪異」の原因を調べていくにつれて、現代から戦後、昭和初期、大正、明治とどんどん過去へ遡求していきます。
文章が丁寧で、なおかつ難しい用語の解説などもうまく挟まれており、読み物としては非常にスラスラと読むことができます。
ホラー小説にありがちな「驚かし」もなく、恐怖体験も<私>本人ではなく全て他人が経験した話の伝聞なので、びっくりもしないですし、雰囲気もどんよりというよりかは淡々としておりさもドキュメンタリー調の書き方なのでホラー小説っぽくないのですが、読んでいると時々鳥肌がたちますし、静かな部屋で読んでいると堪え難い気分になります。
私も前半は喧しい喫茶店で読んでいたので大丈夫だったのですが、後半は物音のしない深夜に自室で一人で読んでいたので、とてもじゃないですが明るいBGMをかけずにはいられませんでした。
文中の<私>はホラー作家という仕事柄、合理主義かつ現実主義者で、その点で私自身の物の考え方と一致する部分が多くあり、没入感が強かったこともあると思います。
また、合理主義・現実主義を謳いながらも「巡り合わせがある」とか「縁起が悪い」といったことを軽視できずにいて、実際に起きている怪異と自分の中の価値観の間で強く揺れ動き、現実主義がブレーキをかける面が文中に多々出現します。
この点で言えば、いわゆる典型的な「怖さ」を求めている人にはつまらない、教科書みたい、といった感想が多く見受けられるのも致し方がないことかもしれません。実際、各所のレビューでも意見が2分されている感がありました。
ただ、私の感じた印象としては、著者のルポタージュ形式を取っているからこそリアリティがあります。いわゆる「怖い話」にある作り話感(非現実感)がないので、あたかも実際にあったことのように、いや、おそらくこういったことが日本全国どこでも起こり得るのではないか、と。フィクションだからと割り切るに割り切れない、ねっとりとした嫌な読後感が残りました。
「手元におきたくない」について
「残穢」は2013年に第26回山本周五郎賞を受賞しています。
その選評にて、石田衣良は「もっともこの本を自分の本棚にずっと置いておく気にはならない」
唯川恵は「実は今、この本を手元に置いておくことすら怖い」と評しています。
実際、私も読み終わった今、同意見です。
よく、「ドアや押入れの戸、襖を少しだけ開けておくのは、悪いものが入り込むから良くない」っていう話、ありますよね。
あの類の話も、普段は気にも留めないですが、そういう話を一度聞いてしまうと、どうしても意識がそれに向いてしまって、しばらくの間はドアを閉め切るようにしちゃいませんか?そして3日もすれば忘れている。
でもそれって、一回最初に見たり読んだりした時点で記憶の中にしまいこまれているだけで、気にしたくない・考えたくないから、あえて思い出さないように引き出しに鍵をかけているようなものですよね。
それと同じで、この本も正直3日もすれば怖かったことすら忘れると思います。
ただ手元にあると、本棚を整理した時、隣にある本を読み返す時、引越しで本を詰める時…いつか嫌でもこの本のことを思い出してしまうのが、堪らなく嫌なんです。
総評
私は生まれも育ちも北海道で、北海道といえば本州・四国・九州に比べて近代まで開発がずっと遅れていたため、いわゆる「曰く付きの土地」というものがほとんどありません。
作中に出てきた、今自分が住んでいる土地で過去に何があったのか、という点でも北海道は札幌や函館の中心部を除いてほぼ原野だったことが確定していますし、私が現在住んでいるところも、今の家が立つまで未開発の湿地帯のど真ん中でした。
そういう意味でいえば「土地」についてはこの小説を読んでも恐るに足らずですね(笑)
もし本州でアパートに一人暮らしをしていた時に読んでいたら、さぞ恐ろしかっただろうと思います。
文中では後半、北九州のある家で起こったことから始まった「穢れ」がウィルスのように伝播して、物・家・土地・人を通して各地に散らばっていったという描写がなされます。
このあたりの理論には少々強引さを感じました。人や土地に憑くのはまだわかるとして、曰くのあった家の建材やら骨董品まで?
ただ、それは私は科学の時代に生きているからこそ身近に感じにくい、というのもあるかもしれません。今より昔、土着信仰や忌みが今より生活と密接だった時代に生きていれば、そういう考え方にも納得がいったかもしれません。
そういった意味で、中盤(6章付近)〜後半にかけて一種の肩透かし感を食らう人もいるかもしれませんね。
私も後半に近づくにつれ、怖さよりも穢れって面倒だなあ、みたいな感想を抱いていました。
ただ、この「残穢」の本当の怖さはそこではなく、日常の中に起こる些細な違和感、例えば床下から音が聞こえる、どこかの部屋から軋む音が聞こえる、人感センサーが誰もいないのに反応する、浴室で頭を洗っている時に誰かの視線を感じる、飼い猫が虚空を見つめる、閉めたはずのドアが開いている、つけたはずの照明が消えている…
そういった、すぐに忘れてしまうような日常の小さな異変が、実はとんでもないことの始まりなのではないか、どんどんと悪い方に肥大していくのではないか。そう思わせるだけの力がこの本には宿っているのだと思います。
いろいろ書きましたが、私は貧乏性なのでとりあえず手に置いておきます。ただもう二度と読むことはないかなぁ…。
誰かに「お化けも出ないしあまり怖くない、よくできたドキュメンタリー小説だよ!(嘘は言ってない)」と言ってプレゼントするのもいいかもしれません。